「情報化社会と中国人」


〜野澤 正徳 先生「インターネットと現代経済」レポート1998年1月20日
        京都大学 経済学部 経済学科 平成5年入学 2017番 堀川 哲朗


  はじめに

 日本はイギリスに始まる産業革命以来の、工業化社会の最後の勝者と言われる。しかし、その日本がバブル崩壊の後遺症とされる経済の停滞から抜け出せずにいて久しい。この根本原因について、堺屋太一氏・大前研一氏ら、先見的な目をもつ我が国の代表的な論客が一致して指摘している点がある。それは、政治・経済・社会システム及びその根底にある教育システムをはじめ、日本がいわば工業社会に「過剰適応」したために、却って、その先にある「情報化社会」への適応が遅れ、その矛盾が噴出している現実が、現在の日本経済停滞の底流にあるということである。

 翻って、日本の周りのアジア諸国を見ると、いまだ最近のアジア通貨危機の激震の影響が覚めやらぬが、大きな目で見て、日本より情報化社会にうまく適応するのではないかという兆候を見せている、あるいは実際に適応していると見られる国・地域がある。香港・シンガポール・台湾・マレーシアなどである。これらの国に共通するのは、ともに広い意味での「中国人(華人)」が構成する、あるいは相当に大きな影響力をもつ国・地域であるという事実である。

 私は、中国大陸の上海をはじめ、台湾、香港などの地域で同世代及びそれより若い世代の最先端を担う人材と交流し、また、彼等の置かれた情報環境を共有するという、まことに得難い経験をしてきた。そこから得られた感想は、彼等の置かれた文化・環境・経済の発展段階等に応じて、ハード的にはかなりの格差があるものの、彼等の共通して持つマインドが、現在の日本人のそれに比べて、格段に情報化社会に適応するものになっているのではないかという事である。

 但し、この結論は、厳密な実証研究を積み重ねて得られたものではなく、あくまで私個人の実体験、および、その社会での常識、通説を組み合わせて得られた感覚的なものであり、その意味では少なからず客観性に欠け、科学的とは言い難い面もあるであろう。しかし反面、多くの中国及び中国人経験者・研究者がうなずいてくれるであろうポイントを押さえている事も確信している。願わくば、これを読まれた方々に誤りを指摘して頂き、実証研究を重ねていただいて、さらにこの分野の研究が盛んになることを願う。

 一世を風靡した日本的経営の分析に日本人マインドの研究が必要であったように、情報化社会の分析には中国人マインドの分析が不可欠であるかもしれない。この小文がその先駆けになっていれば幸いである。
                     1998.1.20  大阪  堀川 哲朗

1、中国かアメリカか

 21世紀の超大国の第一候補はどこかという問に対して、多くの人が「アメリカ」と答えるであろう。これは、全く理にかなったことである。なぜなら、世界最大の核兵器の保有をはじめ、最強の軍事力、世界最強・最先端の経済、世界の機軸通貨ドルをはじめ、アメリカが「現在」世界唯一の超大国であるという事実のほか、「未来」も、アメリカ主導になるということが次第にはっきりしてきたからである。

 世界有数の国土と、国土に対して多すぎず、しかし世界的に見て十分大きな勢力を持つ人口。先端のテクノロジー。最新の組織運営。自国内でかなり需要をまかなえる豊富な資源。など、将来性は数え上げればきりがない。しかし最も決定的に重要なことは、工業化社会を超えた次の発展段階である情報化社会にいちはやく適応し、グローバルスタンダードを事実上ほぼ自分のスタンダードで構成することに成功したことである。コミュニケーションツールとしての英語、インターネットの規格、税制・会計基準等の社会制度など、農業化社会、工業化社会に続く次世代の社会である情報化社会*のインフラは、殆どアメリカ発のスタンダードで構成される。最も象徴的なのは、インターネットのアドレスであろう。例えば日本ならjp、中国ならcnが最後に付く。しかし、アメリカのアドレスには何も付かない。明らかにインターネットの世界では、アメリカがその中心であり、アメリカとそれ以外の地域とが明確に等級分けされているのである。情報化社会では、他のことについても大同小異、これと同様のことが起こるであろう。

 *農業が経済の中心を担うようになる社会という意味で、「農業化社会」といった言い方をしている。「情報化社会」になっても、おそらく農業生産も工業生産も従来より量的に減ることはないであろう。但し、GDPに占める割合は、情報産業の隆盛に比例して低下することになる。

 一方、もう一つの超大国として中国が浮上するという説も増えてきている。アメリカとほぼ同じ大きさの大きな国土。順調な経済発展。比較的豊富な資源。世界の1/4を占める人口。人民解放軍は、構成人員の数から言えば、世界最大の軍隊であり、しかも日々近代化に邁進している。世界中に広がる華人ネットワーク。アメリカで最先端の技術開発を行なっている中国系研究者の質量共に圧倒的なパフォーマンス。アメリカに勝るとも劣らない、本家本元の中華思想。などなど。

 反面、中国のコンスタントな近代化に疑問の声を投げかけるような事例にも事欠かない。膨大な人口を抱えて、アメリカに急速に追い付くには無理がある。すでにここ数十年の改革開放経済の矛盾が噴出しつつある。中国の経済水準が先進国並みになるには、今までのやり方ではとても地球の環境・資源が持たないだろう。まず、食料がもたない。一人っ子政策による、日本を上回る規模とスピードによる超高齢化社会の出現。などなど。

 ここでは、中国が21世紀にアメリカと並ぶ超大国になるかどうかを結論づけるのが目的ではないが、来たるべき(あるいは既に突入しつつある)情報化社会に最適適応するのが超大国になる一つの(というより、前提)条件であるのは確かであり、中国人のもつ伝統的(何をもって伝統的とするかは、日本人のマインドと日本的経営の成功といった事例研究の成果から分かるとおり、かなり難しいものがあるが。)マインドが、少なくとも日本人のそれに比べて、より容易に情報化社会に適応しうるものであることを述べて見たい。

2、組織の日本人、個人の中国人

 日本人と中国人の比較論で、真っ先に言われることが、「日本人は一人一人では中国人にかなわないが、集団になれば、中国人は日本人にかなわない」といった意味の事である。あるいは、三国志に代表されるように、中国では特定の個人が一騎当千の活躍をする。といわれる。

 これらのことが科学的に証明されているかどうかはともかく、感覚的には多くの日本人および中国人が納得のいく見方であろう。そして、それをそのまま工業化社会における日本人の勝利、中国人の敗北に結び付けるのも故なしとはしない。なぜなら、工業化社会に必要とされる極めて多種多様で高度の分業と、その後の超精密な再構成作業には、高度のチームプレーが不可欠であり、日本人はこれが得意、中国人はこれが苦手というのが、そのまま工業化社会の競争力にロジカルにつながるからである。

 また、邱永漢氏は、日本人は職人、中国人は商人と喝破した。(『中国人と日本人』)細かい事に徹底的にこだわり、作品の完成度を高めることに、利益をあげること以上の価値を置くことの出来る日本人は職人であり、利益さえ上がれば、完成度などは二の次という中国人は商人であるというのである。そして、この気質の差が工業化社会では日本人に有利に働くとしている。これはこれで、実際の日本人と中国人の行動様式を眺めていると、かなり納得できるものがある。たとえば、日本のメーカーは、時にユーザーの操作性を無視してまで製品の多機能化を進めた時期があったし、十分利益が出ている商品に、リスクを取ってまで改良を加えるといった行為は、中国人には理解し難いであろう。もし、競争力が無くなれば、事業ごと売買すればいいというのが中国人の発想である。

 ただし、これだけでは、故宮博物館の財宝から現在にいたる、人間離れした技術を駆使した、中国職人の手による工芸品や、世界に冠たる日本の総合商社の活躍が説明出来ない。ここで組織性の有る無しを考慮にいれると、中国職人の工芸品は個人芸であり、総合商社の活動は組織力にあることから、やはり、日本人の活力の源泉は組織力、中国人の活力の源泉は個人力にあるという結論に行き着きそうである。

 中国の都市部では、本業のほかに第2職業(つまりアルバイト)をしている人の数が多い。これは、そのようにしなければ生活できないという経済的状況を示すほかに、利益の上がるところにそれ相応の力を投入する。また、必要以上にしがらみに囚われないといった、徹底した中国人の個人主義とプラグマティズムを表わしている。このような中国人の性向は、人材の流動化を容易にし、将来急激に展開する産業の構造変化への人材の円滑な供給を可能にするであろう。また、利益率と資本の回転スピードを至上命題とし、機会を見つければ即投資するといった、情報化社会における世界標準の行動様式にも合致したものである。そういった意味では、情報化社会は商人優位の社会であり、天性の商人ともいえる中国人にとっては格好の活躍舞台になるであろう。

3、戦術の日本人、戦略の中国人

 よく日本人は戦術は得意だが、戦略が苦手といわれる。反対に中国人は日本人に戦術では劣っても、戦略が優れている。といわれる。これは、先程の「組織の日本人と個人の中国人」とパラレルである。

 というのは、戦術とは、所与の条件の中でいかに上手く戦うかということであって、大きな目標・方向性は上が与えてくれる。そうなれば、構成員にとっての関心事は、いかにチームワークを高め、リソースを効率良く使い、最善のアウトプットを得るかということになる。これは組織の日本人の得意とするところである。

 これに対し、戦略は、所与の条件が全く無い。全て自分が考える。そして、究極的に自分にとって最適の結論になるように全てを配分する。大きな方向性を決める。これは個人の中国人の得意とするところである。

 日中戦争において、日本軍は局所的には中国軍を圧倒することが多かったかもしれないが、決戦を避け、空間で時間を稼いでいれば、やがて勝てる事を蒋介石も毛沢東も知っていた。日本の指導者や将軍は勝つ術を知らなかった。負けないうちににやめる術も知らなかった。(知っている人もいたのだが、その「異能」を生かすことができなかった)

 日本のメーカーは、製品の品質を極限まで向上させ、既存の製品を最高の完成度にまで高めて世界市場を席巻したが、自らのコンセプトで開発し、世界に広がった製品はあまりない。今後の情報化社会での生き残りのコンセプトを明確に出せた所は少ない。(もし出せる人がいても、外資系企業や海外の研究所に移るしかなかった)

 これらは、日本が戦術で勝っても戦略で勝てないという例である。(また、知らず知らずのうちに戦略的思考の出来る人を排斥しているという例でもある)全体の流れが決まっているなかでは、小さな戦いの勝利の積み重ねが最終的な勝利に結び付く。極地戦で装備が極端に不利でない状況下では、組織力を発揮し、チームワークを生かせば、かなりの確率で勝利することが出来る。製品の品質を向上させることも、同様に組織力でかなり対応できる。あまり頭は使わなくてよい。というと、言いすぎになるかもしれないが、少なくとも、目の前の課題に真剣に取り組みさえしていれば、あまり大きな問題は生じずに前に進めるであろう。日本の高度経済成長や、石油ショックの克服がこの例に当たるだろう。

 しかし、全体の流れが不透明なときは、惰性でそれまでの政策を続けると、かえって悪い方向に行くことがある。自分をとりまく環境が激変しているときは、方向自体を自分で定めなくてはならない。間違った方向につき進んでいては、自滅を早めるだけである。ここでは、本当に頭を使わなくてはならない。これまでの惰性の延長線上には答えはない。こういったときは、ゼロベースで頭を使って新しい方向を考え出さなくてはならない。こういった状況での対応の正否を研究するには、満州事変から日中戦争にいたる期間の日中の対応や、現在のアジア通貨危機に対する日中の対応を比較するのが良い示唆になるだろう。

4、同質性と閉鎖性の日本人、異質性と開放性の中国人

 歴史的に見て、日本では外国人が活躍した例はあまり多くない。これに対し、中国では外国人(というより、異民族というべきか)の活躍が多い。たとえば長安で活躍した日本人の阿部仲麻呂もその一例だし、かつては、目の青い政府官僚もいた。もう少し厳密に言うと、日本でも活躍した外国人がいたが、日本人に同化してしまった。あるいは同化せずにはいられなかった。(大和朝廷における朝鮮半島からの渡来人の例)もしくは、活躍した外国人はみな高位の先生扱いで、本当に日本に日本人と平等の立場で活躍したとは言えなかった。(鑑真和尚や明治の西洋人技術者の例)中国では、中華という、一応規範となる文化的概念はあったが、実際に中華社会を構成していた民族、人種があまりに雑多で、たとえばコミュニケーション手段として漢字を使うといった、中華文明の最低限の文化的インフラを受け入れたものを全て中国人として扱うしかなく、いったんそのように受け入れれば、その他に多少の差異があっても、異民族として差別しなかった、ということかもしれない。

 しかし、このような「伝統」が、今の日本と中国の外国人政策にも反映している。日本人には、あくまで外国人を「外人」として自分と違った人間として認識するか、まったく自分と同化するか、どちらかしか許せないといった良く言えば潔癖性、悪く言えば閉鎖性が認められる。(最近まで「改名」して日本人風の名前にしなければ外国人は日本国籍を取得できなかった)そして、同化した人々にも、当分の間、特別扱いが続くというのが普通である。

 それにたいして、中国人は、異民族であるかどうかにかかわらず、あるがままの能力をそのまま活用するといった鷹揚な傾向が見受けられるように思う。

 実際、日本における少数民族が在来の日本人より高い地位を得ることはまれであるが、中国では、特定の少数民族は、平均的に高い教育水準によって、割合的に見て、漢民族より良い地位についているという例もみられる。あまりに雑多で多様な人間構成のため、誰にでも分かる基準で公正に処遇しなければ社会が収まらないというところは、多民族国家としてアメリカと共通するところがある。

 中国に留学して気付くことは、留学生のなかに占める黒人の割合がけっこう大きいということである。彼等の多くはアフリカ等、第三世界のエリート候補生で、彼等の生活費や学費は全て中国政府が負担している。彼等の多くは、帰国後、中国シンパとして各界の代表格に君臨するであろう。そういう意味で、これは、第三世界のリーダーを自負する中国の戦略的投資とも言えるものである。中華思想的匂いがなくはないが、日本政府が無策のために結果的にアジアから日本への留学生の多くを日本嫌いに追いやっているのに比べれば、雲泥の差の戦略勝ちと言えるだろう。

 情報化社会の本質が、異なるものの価値を相互に認め合い、持っている資源に応じて協力し合うことにあるとすれば、どちらの性向がより情報化社会に適応しているか、一目瞭然であろう。

5、政府に頼る日本人と政府を信用しない中国人

 どんなにひどい目にあったとしても、政府は日本人にとって頼れる存在のようである。何々が悪いのは政府のせいだといっては、政府はその国民の声をいいことに、規制や権限を強化してきた。またそれに対して、国民は大きな声をあげなかった。政府の決定には諾諾として従っている。いくらひどくても、外敵から自分を守ってくれる効用のほうが大きいと本能的に思っているのだろうか。

 それに対して、中国人は、政府を全く信用していない。「上に政策あれば下に対策あり」とは良く言ったものである。これも、永年の経験から、政府は自分から絞り取ることはあっても、便宜を与えてくれることは決してないと悟り切っているからであろうか。

 日本人は、自分の便益を多少犠牲にしても、政府の言う事をおとなしく聴くことで、保護をあたえられるという生活に慣れてきた。具体的には低い利子でもつぶれない銀行といった具合である。安全と水はただだと思ってきた日本人であるが、じつは、ただなのでなはく、それ相応の犠牲(不自由な規制や高コスト)を払って、政府からの保護を受けてきたのである。しかし、そのために自分でリスクを取るという動物的本能を鈍らせてしまった。

 これにたいして、中国人は政府を全く信用していない。自分の力で幾多の困難を乗り越えてきたという自負がある。従って、自らの行動に自らリスクを取るというのは、当然の事だった。いつ何が起こるか分からない。だから、中国人は資産を金に替えてため込んだ。つまり、はるか前から自己責任の原則が貫徹していたことになる。

 これまでのいきさつは、どうであれ、情報化社会は世界標準という、統一された制度のもと、市場経済と自己責任の世の中になる。優勝劣敗が原則。保護は極度に制限される。その時、これによく対応できるのは日本人か、中国人か。いうまでもなく中国人であることは、上記の事例から明らかであろう。

6、工業化社会と日本人

 人間の能力には限りがあるから(というより、チームワークと独創性には相反する性格があるから)、チームワークを重視すれば、個性や独創性を抑えなければならないだろう。反対に、個性や独創性を重視するなら、チームワークに乱れが生じるかもしれない。

 一口で言って、工業化社会はチームワーク重視の社会である。それは、同質性の社会でもある。日本はそれにとても良くフィットした。いや、適応しすぎた。元々他の国々に比べて同質性が高い上に、海で囲まれた国土と、同質性を高める教育がいっそうそれを強化した。高度な工業製品の生産には、同質性の高く、従順な労働者が大量にいるほうが有利である。戦後の高度成長と、日本製品が世界を席巻した事実を見れば、その政策は成功したと言えるのかもしれない。

 しかし、そのために払った犠牲も小さくなかった。工業化のための公害や環境破壊をべつにしても、精神面での犠牲が大きかった。「いじめ」や「登校拒否」は、明らかに画一的な人格を規格大量生産する上での歪として発生したものだし、「暗記するだけで考えられない」「個性がない」といった、日本の子供に対する批判は、工業化社会に適応した人間を育成するといった教育方針の「成功」の副作用である。さらに具合が悪いのは、こういった同質性と従順さは、工業化社会においては有利だったかもしれないが、次の情報化社会においては、不利になる以外のなにものでもないということである。

 なお、工業化社会は、脱三国志の時代でもあった。三国志の時代に関羽や張飛が本当に何千人もの敵兵を相手にしてなぎ倒したのかどうかはともかく、工業化社会では、そんなことは、全く考えられなかった。どんなに優れた個人でも、構成員一人一人は無力かもしれないが、組織化されて整然と行動する集団にはやはり勝てなかったのである。

7、情報化社会に必要とされる資質

 情報化社会は個性の社会である。独創性とマネジメント能力が最大の価値を持つ社会である。これさえあれば、ネットワークを通じて、手足はいくらでも手にはいる、または機械が手足になってくれる。再び三国志の世界なのである。つまり、その気になれば一人で何千、何万人でも相手に出来る。ネットワークが己の力を限りなく増幅してくれるのである。

 つまり、そんな情報化社会を一言で言うと、「てこ」の社会であるといえる。独創的な発想と、マネジメント能力があれば、自分の発想を、ネットワークを通じて何倍にも拡大して現実化することが出来る。イメージ的には、自分が頭脳となって、コンピュータネットワークの神経系を通じて指令し、ネットの先にある現実の組織、人間を筋肉のごとく動かすのである。

 例えば、国際金融の世界で有名なジョージ・ソロス氏は、「レバレッジ効果」(文字どおり、てこの原理)を駆使して、世界中の政府を相手に回して通貨の戦いを挑み続け、今の所、勝ち続けている。ABB社は、インターネットを通じて世界に散らばる関連会社やパートナーの能力を結集し、これまで以上の規模の事業をこれまで以上の早さで実現する。世界各地のパートナー達が発信する情報が、ネットの先端で現実社会を大きく動かす。

 この社会で重要な能力は、他にない発想(独創性)と、コンピュータネットワーク(もしくはネットワークによるフラットな組織)を通じたマネジメント能力である。もちろん、円滑に組織を運営するための協調性は必要だが、それはむしろ、異なる独創的な発想を調整して最適の組み合わせにして送り出すコーディネイト力というべきであり、単に回りに合わせる能力という意味なら、それは下請けに要求される能力に過ぎない。

8、ネットワーク社会と中国人・日本人

 以上から、典型的と言われる日本人と中国人の性格を比較し、それを情報化社会のトレンドのなかに当てはめれば、おのずと中国人的性格のほうが情報化社会に適していると言えそうなことが分かってきた。

 但し、もう少し厳密に言うと、次のようになるかもしれない。

 情報化社会で主導権を握れる人間は、独自の情報を世界に向けて発信できる人間である。と良く言われる。しかし、もし全ての人間がこうなったらどうなるか。それは現実にはほとんどありえないことだろうが、現実に実行する「手足」の部分がなくなってしまう。もし、そういったことを機械がすべてやれれば、問題は解決するのかもしれないが、それも当分先、または、不可能である。したがって、現実には人々が「頭」の部分と「手足」の部分に分解される事になるだろう。これは、ちょっと恐ろしいこととも言えるし、すでに現実社会はそうなっているともいえよう。

 ただ、はっきりいえることは、世界的に制度・条件が均質化されるなかで、こういった差が今以上にはっきりする。そして、国境といったものがこの変化を防ぐ防波堤になるのには限度がある。さらに、自分で考えられる独創性と実行力を持った人材をどれだけ抱えているかがその国なり民族なり地域なりのステイタスになるだろうということである。自分で考えられない人がいくらいても、それは、「考える人」の下請けに回ってしまうので、その所属集団のステイタス向上にはあまり貢献しないであろう。

 この流れの中で、もし、日本人と中国人の特性が不変のままだとすると(私個人はそう思いたくないが)、これからの情報化社会の中で、どちらのほうがより有利になるか、結果は明らかであろう。

  おわりに

 時間的制約もあり、あまりまとまっているとはいえない現状で筆を置くのは心苦しいが、いままのままでは情報化社会のなかで、日本人は中国人より不利な立場にたたされるであろうという趣旨は汲んでいただけたものと考える。

 もちろん、そうならないようにこれから日本人も変わっていくべきだという含みがここには入っている。一説によれば、現在の「伝統的」日本人像と言うのは、たかだかこの50年で工業化社会に適応してきた結果にすぎないとも言われる。もしそうなら、また次に来る情報化社会でも日本人は、十分に適応していけるはずである。
 
 われわれ日本人は、もとを正せば、大陸の東のはしにある島国に渡り住んだ、好奇心と冒険心あふれる種族の子孫のはずである。いままさにそのときのベンチャー・スピリットを取り戻す時なのではないだろうか。情報化社会は、従って、ベンチャーの社会でもある。

                   1998.1.20  大阪  堀川 哲朗


 


 


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